歳をとってくると体は徐々に固くなって俊敏な動きができなくなります。私は10年以上前から、定期的にマッサージを受けています。通常は土曜日の朝、1時間ほどマッサージを受けるのです。今週はマッサージ師の都合が悪く、今日(9/25)8時からマッサージを受けてきました。その先生は「明日(9/26)は子供の小学校で運動会があります」と嬉しそうに私に語り始めました。
私が小学生だった時代はず~と遡って55年ほど前になります。その時代の徒競走(50m走)では身長順か又は出席番号順に出走者を決めていたと思います。よって走り出すと早い生徒と遅い生徒の差が歴然で、一等でゴールする生徒は鼻高々でした。ノートなどの景品ももらえました。それでも最後にゴールする生徒にも惜しみない声援が飛んだものです。それが今、事前に全員のタイムをはかり、同じようなタイムの者同士で徒競走をするのです。それでも最後はデッドヒートになるかも知れませんが、出走する生徒たちに大きな差が発生しません。
昔と今の違いはどこにあるのでしょうか。今の学校(教育委員会)は生徒を差別なく平等に対応するという意識が強くなっていると思います。人は完全に平等ではありません。伸長の高い人もいれば低い人もいる。また学力が高い人もいれば、運動能力が劣る人もいます。夫々の能力等の差異は個性とみるべきでしょう。個性に差があるのは当然で、その個性差・個体差を同じ基準で一緒に取り扱うというのは如何なものでしょうか? 「平等に扱う」ということと「(機会を)公平に扱う」というのは似て非なるものです。
学力の高い生徒がいれば、全員が同じ授業を受けるのではなく、飛び級でよりチャレンジングな授業を受けても良いと思います。またその生徒らには授業を受けることなく独習させても良いでしょう。今は授業に追い付ていけない生徒には補修や授業中に補助の先生が懇切丁寧に教えています。しかし学力の高い生徒に対しては何のサポートをしないのです。これは逆の差別ではないでしょうか。余りにも「生徒に差をつけてはならない。平等に扱う」という意識が強くなりすぎて、伸ばせる個性や強みを殺す逆差別を生んでいるように感じます。
また運動会に話しを戻します。私の小学校、中学校時代の運動会・体育祭の花の1つに大勢でする組体操がありました。特に人間ピラミッドを完成させたときは、運動会を観に来ていた父兄からも「おっ」という歓声と拍手が自然と沸き起こったものです。ときは変わり今は、生徒が転落し怪我をするということで人間ピラミッド自体をなくすか、又は階層を少なくするという愚策に出ています。危険を避けるということはOK。しかしこの経験を素地に生徒たちが「危ないことを避けて、敢えて挑戦することをしない」という行動を採るようになってしまうのではないかと危惧されます。
いかなる生活シーンでも危険(リスク)は必ずあります。危険が全くないという世界はありません。危険感知力・予知力を高めると共に、危険な事態が発生したときの対応力を身に付けなくてはなりません。「生徒に怪我をさせると自分達が責められる」という学校・教師の被害者意識を生徒たちは感じ取っています。「生徒たちを(過度に)平等に扱う」「危険なことから遠避ける」などの習慣が身に付けていまうのではないか。マッサージの先生との会話が私はそう思ったのでした。